彼らは恐れのないところで 大いに恐れた〜詩篇53篇5節

今、この半年間の教会の歩みを振り返っています。まさに新型コロナの脅威への対処が一番の大きな課題でした。ただ、日本全体の空気を見ると「彼らは恐れのないところで、大いに恐れた」(詩篇53:5) というみことばを思い起しました。

現在のコロナウィルス蔓延は確かに大きな脅威ですが、1990年台初めのバブル経済の崩壊後、日本の自殺者数は急増し、2003年には34,427人と最悪を記録します。そのうち経済問題を苦にした自殺者数は8,897人であったと言われますが、それは10年後に半数以下になります。そして、2019年の自殺者数は19,959人にまで減少します。そこには失業者数の減少が大きな意味を持っていたと思われます。

今、懸念されるのは新型コロナ蔓延による経済の自粛が失業者の増加や社会不安をもたらすことです。新型コロナウィルスが特に、基礎疾患をお持ちの方や高齢者に恐ろしい影響を持つことが心配されますが、それでも日本での9月16日までの累計死者数は1,481人に留まっています。

一方、2019年の季節性インフルエンザによる死者数は3,325人、誤嚥性肺炎による死者数は2017年には35,788人を記録していました。ちなみに2019年の交通事故による死者数は3,215人でした。

諸外国に比べて日本の新型コロナによる死者数が少ないのは、日本人がこの感染を正しく恐れて感染対策を真剣に行ってきたからですが、私たちは同時に、新型コロナばかりを過度に恐れる体制から徐々に変わる必要があるのかもしれません。

事実、精神疾患をお持ちの方の病院来院数、また施設利用者の方々の重症化が、急増しているという現場の話も聞かれます。

詩篇53篇では最初に、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている」と記されます。なお、「愚か者」とはヘブル語でナバルと記されます (Ⅰサムエル25:25参照)。後にダビデの妻となったアビガイルは、愚かさのため自滅した夫のナバルに関して「あのよこしまな者」と呼びました。家来もナバルを避けていました。彼は自分の羊の群れがダビデによって守られていたことを知ろうともせずに、ダビデの怒りを買いました。

「愚か者」とは、「知性が足りない」ことではなく、世界を自分の尺度で計り、見るべきものを見ようとしない「傲慢さ」を意味します。

使徒パウロはローマ人への手紙3章10-12節で、この1-3節を引用するようにしながら、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」と記しています。そこでの「義人はいない」という表現は、この詩の1節全体の要約とも言えましょう。「神はいない」と宣言すること自体が、神の怒りを買う罪であるからです。

なお、この2節では、「神は天から人の子らを見おろして……いるかどうかをご覧になった」と、神の観察の様子が描かれます。それをパウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらない」(同1:28) ということの結果として予め記したのではないでしょうか。つまり、この2節にあるように、「神を尋ね求め」ようと「意志しない」こと自体が、罪の始まりとされているのです。

その上で、「不法を行う者ら」は、「パンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない」とその罪が指摘されます (4節)。彼らは民を搾取して、食い物にしている罪と、神を呼び求めないという罪が、並行しているという事実を「知らない」のです。

そして、この5節では、「彼らは恐れのないところで恐れる」と記されますが、それはレビ記26章36節で、神のさばきとして、「彼らの心の中におくびょうを送り込む、吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる」と記されていることの成就とも言えましょう。

多くの人々は自分を神とし、自分の尺度で現実を判断し、自分の力で問題を克服しようとします。しかし、神はそのような人に、「恐れ」の心を与えることによって、神を恐れるように招いておられます。私たちも神を恐れることの幸いを証ししたいものです。

祈り

主よ、「神はいない」という愚かさから私たちを救い出してくださり感謝します。様々な「恐れ」に囚われている人々に、神を恐れることの幸いを証しさせてください。


なお、 のCGNTVのサイトで東京の多くの牧師たちの10分間メッセージをお聞きいただくことができます。小生のメッセージは9月12日と8月27日でした。その欄をクリックするとお聞きいただくことができます。